文春の編集長の言葉が身にしみる。(笑
人間は、感情で相手や物事を判断することが多い。
いや、感情で判断して事実(相手の行動や行って来た過去)を
見ようとしないことも多い。
詐欺師はそれを利用するんですけどね。
今、テレビや新聞が面白くないのは、リスクをとらないこと。(取る必要が
ないと思っている。)
文春のスクープが凄いのは、友軍記者(フリー)が多いのもひとつの理由だろう。
コネとか学閥や派閥的な人員で占められている企業衰退する。
(その割合にもよるのだけどね。)
テレビ局や大手出版社に政治家の子供や芸能人の子供が多いのが
最近特に目立ってきている。
藤井フミヤ氏の長男も今年テレビ局に入社するとのこと。
いや、別にいいんだけどね。
将棋界に二世が少ないのを見ると結局才能とかの遺伝は
実力の世界では通用しにくいと言うこと。
二世が多い世界ほど、実力の世界でなく、コネや人間関係による
世界であって、その世界はいずれ衰退や弱体するということだろう。
今回のインタビューは、学ぶべき点が多々あった。
「ありがとう。センテンス・スプリングス」(笑
転記は、重要と思われる文章を転記した。
転記
実は「なぜ記事を掲載したのか。少年法に反するのではないか」という批判が
来ることを想定して、コメントを用意していたんです。
ところが、あれだけ甘利氏のことやベッキーさんのことを追ってきたメディアが
今度はどこも書かない。完全に拍子抜けでした。特に大手メディアは一切スルーだった。
あらためて強調しておきたいのは、あの記事を載せたのは世の中に問題提起をしたかったからということです。
あれだけの犯罪を犯した人物をいかに社会が受け入れ、いかに共存するか。そして、彼が自分自身をどこまでコントロールできているのかという不安もありました。
本誌記事で複数の識者が指摘したとおり、少年法のもとでどこまで更生できているかも疑問です。もちろん更生できていないと断言するつもりはありません。
ただ、これは社会的に広く議論すべきテーマだと考えたわけです。
大手メディアは後追いしなかった一方で、
ネットでは、少年法のあり方や彼の著書を巡る問題など、さかんに考察、議論が行われ
た。もちろん乱暴な意見も散見されましたが
ネットと大手メディアのこの熱量、リアティの違いに、いまのジャーナリズムが抱える問題点が如実に現れていたように思います。
いまのメディアは、批判をされない、安全なネタばかり報じる傾向が強まっているように思います。評価が定まったものに対しては「悪い」「けしからん」と叩きますが、定まっていないものは扱いたがらない。ベッキーさんなんか最たるもので、一度、「水に落ちた犬」となると、かさにかかってみんなで責める。ベッキーさんの記事が出た後の反応、展開は我々の想像を遥かに超えていました。
重要なポイントはつねに変わりません。情報とは、要するに、「誰」が「何」をしたのか、です。そこに報じる意義があるのか、ということです。
政治家が一番わかりやすいですが、世の中に大きな影響力を持っている存在であるかどうかがまず第一。その人が「公」の存在か否か、です。第二に、提供された情報が事実である場合、そこに違法性があるのか、あるいは、倫理的に見てどうなのか。一般的に、許されざることなのか、無視していいものかといったことを検討する。
そこで理解していただきたいのは、われわれはやみくもにプライバシーを暴いているわけではないということです。先に述べたように、社会をリードするような影響力のある人がこんなことをしている、こんなことを言っている、という知られざる事実を紹介する。その報道によって「ちょっと待てよ」という多様な視点を確保できるのではないか、と考えているのです。昨今はSNSが発達したことで、政治家や芸能人も自ら情報を発信しやすくなりました。ただそこで発信されるのは、彼ら彼女らにとって都合のいい情報だけです。そうした「公人」と言うべき人物による「キレイゴト」「タテマエ」ばかりが流されることで、社会がミスリードされるのは危険なことですから。そんな社会は息が詰まります。
巨大な権力を握っている人が相手でも、何かおかしいところがあれば、世の中に知らせる必要がある。「王様は裸だ!」と言えるメディアはいつの時代も必要だと思う。「不都合な真実」を最初に叫ぶには、勇気が求められる。そこで私たちの背中を押してくれるのが、読者の皆さんの「知りたい気持ち」なんです。
「圧力だ!」とオピニオンで百万遍抗議するよりも、相手にとって不都合だけど伝えるべき事実を一つでも突きつけたほうが、よほどダメージが大きいと思うんです。それこそが報道機関の戦い方だと思います。
かつて警察庁長官だった人と食事をしたとき、冤罪の話になったんです。なぜ冤罪が多いのかと尋ねたら、彼は「白くする捜査をしてないからだ」と答えた。捜査の現場はつねに相手がクロだと思って、黒くする捜査をする。すると、相手がシロである証拠が目に入らなくなる。そこで「白ではないか」という視点のもとでもう一度捜査をし直すと、見落としていた被疑者がシロである証拠、これを「消極証拠」と言うんですが、それが浮かび上がってくることがあるんだそうです。だから「白くする捜査」を怠ってはいけないと。
私はこれはいい言葉だと感動して、現場にもよく言ってるんです。「白くする取材をしろ」と。思い込みが強すぎたり、功を焦ったり、上からのプレッシャーがきつすぎると、「ガセかもしれない」と疑う芽を見逃してしまう。「黒」と「白」の「複眼」をもつということが大切なんです。噂に毛が生えた程度の裏付けでは絶対に書かないし、「裁判で勝てる」だけの取材を重ねる。「事実はこうに違いない」ではない。「事実はこうだ」と言い切れるまで取材を尽くすということです。
政治でも芸能でも、われわれの原点は“人間への興味”なんです。タフネゴシエイターと高い評価を受けている大物政治家が、大臣室でとらやの羊羹と一緒に現金を受け取ったり、好感度抜群の女性タレントが禁断の恋に身を焦がしたり、恋愛禁止のはずのアイドルが好きな男の子の前で泥酔したり号泣したり……。もちろん善悪の評価もありますが、何より、人間って面白いというのが原点なんです。愚かだし醜いけど、可愛らしいし美しくもある。
「過激にして愛嬌あり」。
私が大好きな明治の反骨のジャーナリスト宮武外骨の言葉です。週刊誌は怖がられて引かれたらダメなんです。読者の皆さんに面白がってもらって、可愛がってもらうことが大切だと思っています。
参照
なぜスクープを連発できるのか 新谷学・週刊文春編集長を直撃
いや、感情で判断して事実(相手の行動や行って来た過去)を
見ようとしないことも多い。
詐欺師はそれを利用するんですけどね。
今、テレビや新聞が面白くないのは、リスクをとらないこと。(取る必要が
ないと思っている。)
文春のスクープが凄いのは、友軍記者(フリー)が多いのもひとつの理由だろう。
コネとか学閥や派閥的な人員で占められている企業衰退する。
(その割合にもよるのだけどね。)
テレビ局や大手出版社に政治家の子供や芸能人の子供が多いのが
最近特に目立ってきている。
藤井フミヤ氏の長男も今年テレビ局に入社するとのこと。
いや、別にいいんだけどね。
将棋界に二世が少ないのを見ると結局才能とかの遺伝は
実力の世界では通用しにくいと言うこと。
二世が多い世界ほど、実力の世界でなく、コネや人間関係による
世界であって、その世界はいずれ衰退や弱体するということだろう。
今回のインタビューは、学ぶべき点が多々あった。
「ありがとう。センテンス・スプリングス」(笑
転記は、重要と思われる文章を転記した。
転記
実は「なぜ記事を掲載したのか。少年法に反するのではないか」という批判が
来ることを想定して、コメントを用意していたんです。
ところが、あれだけ甘利氏のことやベッキーさんのことを追ってきたメディアが
今度はどこも書かない。完全に拍子抜けでした。特に大手メディアは一切スルーだった。
あらためて強調しておきたいのは、あの記事を載せたのは世の中に問題提起をしたかったからということです。
あれだけの犯罪を犯した人物をいかに社会が受け入れ、いかに共存するか。そして、彼が自分自身をどこまでコントロールできているのかという不安もありました。
本誌記事で複数の識者が指摘したとおり、少年法のもとでどこまで更生できているかも疑問です。もちろん更生できていないと断言するつもりはありません。
ただ、これは社会的に広く議論すべきテーマだと考えたわけです。
大手メディアは後追いしなかった一方で、
ネットでは、少年法のあり方や彼の著書を巡る問題など、さかんに考察、議論が行われ
た。もちろん乱暴な意見も散見されましたが
ネットと大手メディアのこの熱量、リアティの違いに、いまのジャーナリズムが抱える問題点が如実に現れていたように思います。
いまのメディアは、批判をされない、安全なネタばかり報じる傾向が強まっているように思います。評価が定まったものに対しては「悪い」「けしからん」と叩きますが、定まっていないものは扱いたがらない。ベッキーさんなんか最たるもので、一度、「水に落ちた犬」となると、かさにかかってみんなで責める。ベッキーさんの記事が出た後の反応、展開は我々の想像を遥かに超えていました。
重要なポイントはつねに変わりません。情報とは、要するに、「誰」が「何」をしたのか、です。そこに報じる意義があるのか、ということです。
政治家が一番わかりやすいですが、世の中に大きな影響力を持っている存在であるかどうかがまず第一。その人が「公」の存在か否か、です。第二に、提供された情報が事実である場合、そこに違法性があるのか、あるいは、倫理的に見てどうなのか。一般的に、許されざることなのか、無視していいものかといったことを検討する。
そこで理解していただきたいのは、われわれはやみくもにプライバシーを暴いているわけではないということです。先に述べたように、社会をリードするような影響力のある人がこんなことをしている、こんなことを言っている、という知られざる事実を紹介する。その報道によって「ちょっと待てよ」という多様な視点を確保できるのではないか、と考えているのです。昨今はSNSが発達したことで、政治家や芸能人も自ら情報を発信しやすくなりました。ただそこで発信されるのは、彼ら彼女らにとって都合のいい情報だけです。そうした「公人」と言うべき人物による「キレイゴト」「タテマエ」ばかりが流されることで、社会がミスリードされるのは危険なことですから。そんな社会は息が詰まります。
巨大な権力を握っている人が相手でも、何かおかしいところがあれば、世の中に知らせる必要がある。「王様は裸だ!」と言えるメディアはいつの時代も必要だと思う。「不都合な真実」を最初に叫ぶには、勇気が求められる。そこで私たちの背中を押してくれるのが、読者の皆さんの「知りたい気持ち」なんです。
「圧力だ!」とオピニオンで百万遍抗議するよりも、相手にとって不都合だけど伝えるべき事実を一つでも突きつけたほうが、よほどダメージが大きいと思うんです。それこそが報道機関の戦い方だと思います。
かつて警察庁長官だった人と食事をしたとき、冤罪の話になったんです。なぜ冤罪が多いのかと尋ねたら、彼は「白くする捜査をしてないからだ」と答えた。捜査の現場はつねに相手がクロだと思って、黒くする捜査をする。すると、相手がシロである証拠が目に入らなくなる。そこで「白ではないか」という視点のもとでもう一度捜査をし直すと、見落としていた被疑者がシロである証拠、これを「消極証拠」と言うんですが、それが浮かび上がってくることがあるんだそうです。だから「白くする捜査」を怠ってはいけないと。
私はこれはいい言葉だと感動して、現場にもよく言ってるんです。「白くする取材をしろ」と。思い込みが強すぎたり、功を焦ったり、上からのプレッシャーがきつすぎると、「ガセかもしれない」と疑う芽を見逃してしまう。「黒」と「白」の「複眼」をもつということが大切なんです。噂に毛が生えた程度の裏付けでは絶対に書かないし、「裁判で勝てる」だけの取材を重ねる。「事実はこうに違いない」ではない。「事実はこうだ」と言い切れるまで取材を尽くすということです。
政治でも芸能でも、われわれの原点は“人間への興味”なんです。タフネゴシエイターと高い評価を受けている大物政治家が、大臣室でとらやの羊羹と一緒に現金を受け取ったり、好感度抜群の女性タレントが禁断の恋に身を焦がしたり、恋愛禁止のはずのアイドルが好きな男の子の前で泥酔したり号泣したり……。もちろん善悪の評価もありますが、何より、人間って面白いというのが原点なんです。愚かだし醜いけど、可愛らしいし美しくもある。
「過激にして愛嬌あり」。
私が大好きな明治の反骨のジャーナリスト宮武外骨の言葉です。週刊誌は怖がられて引かれたらダメなんです。読者の皆さんに面白がってもらって、可愛がってもらうことが大切だと思っています。
参照
なぜスクープを連発できるのか 新谷学・週刊文春編集長を直撃
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